振り返ると・・・パート2

 さて、僕がもう一つ強く意識していたことは、人間関係の構築方法である。
人間関係の構築方法。これは人格者なら意識しなくても良いのかと言われれば、そうではない。(詳しくはまた後日述べたいと思うが、)僕が人付合いが下手だから、構築方法について意識したというわけではない。
 サークルであれ、何であれ、結局は人間のための行いである。(地球のため、環境のためという自我を超越した部分の存在は決して否定せず、またそのような自我を超越したもののために人間が頑張らなくてはいけないということも否定しないが、話の次元が違う。国家と個人や自己と愛人の関係などを考える際に、自我の超越ということを考える機会があるだろう。)つまりは、当然ながら、人間と人間のやり取りがベースであり、人間の気持ちを考えるということが、コアメンバーの育成にも(ーまたそれだけにはとどまらずー)当然ながら有効な手段である。
 先輩には先輩の、後輩には後輩の役割がある。それは間違いない。ただ、その事実のみを、どんだけ相手に伝わりやすいように論理的に言ったところで、それをそのまま唱え続けるのは野暮であろう。先日、後輩が「社会人になると冷たくなっちゃう人が多くなる気がする」と言っていた。彼女のポイントは、良く分かる。思うに、彼女がそのように感じるのは、社会人は、相手に物事を明確に伝え、自己が所管する業務内容を分かりやすく伝える必要があるため、やはり論理性を追求し、論理的に語ろうとする。このような姿勢が、彼女の目には冷たいと映ったのであろう。しかし、やはり論理性は相手に想いを伝える際の最大の武器の一つであろう。
 だが、それだけでは「人間」の営みとは言えないであろう。人間を動物と分けるのは、理性や意思であると言われている。(それゆえ、情緒的な意思しか持たないー持てないー市民が衆愚政治を作りだし、それが敬遠されるのであろう。)理性や意思は論理的に伝えることは出来るが、それらを生み出すのは感情であろう。意気だと思う事柄に没頭出来る幸せを感じたり、素晴らしいと思える人に出会え、その人に憧れを抱きながら打ちこめる、ということは、感情を持っているからこそ出来ることである。
 言ってて、当然すぎて、ばかばかしいが、?感情を理解すること、?相手に納得してもらえるよう、心がけること、の両方が必要なのである。そのために、KAVのこととはまったく関係ないことでも、メンバーの感情をなるべく共有しようとした。(実際は、「共有したいと思えるメンバーたちであった。」と言うほうが、事実に近い。)喜びや悲しみ、時には怒りさえ、共有したと思う。それらの共有が人間関係の構築方法として最適なものであったと思う。山に登れば、簡単に共有できる。これは登山サークルの良さである。しかし、運営という観点からみると、これが逆に少々厄介になる時がある。登山に参加した人としなかった人とで感情の共有に差が生まれてしまうからである。(このことは、山以外のイベントにでも言えるのだが。)
 さて、長くなったので、結局何をどう目指したかを少しまとめ、最後にそれを総括してみる。
結局僕は、会の復興のために、コアメンバーの育成に全力を注いだ。また、そのために、?「個人個人のプライベートな視点」と「会のメンバーとしての視点」の二つを意識づけるようにした、?可能な限り「皆で生きているのだ!」という認識、気持ちの共有を図った、?問題提起を適宜行い、皆で検討し、皆がKAVを作っているのだという認識の保持を図った、と言えるだろう。

 では、そのような目論みは上手くいったか。
現在会を仕切ってくれているメンバーは継続性の大切さを理解し、打ち込んでくれている。その点、彼らはコアメンバーと言え、僕の意図した点はクリアーされたと言えるだろう。
しかし、何がどれぐらいの貢献度であったかなど数値化できるわけがない。行政の仕事でもなかなか数値化しにくい部分でさえも、数値化し効率化を図る昨今であるが、サークル運営に関しては、このような営みは不必要であろう。サークルの営みに無駄なものなど決してなく、効率を求める必要など決してないのである。確かに、必要以上に周りを振り回し、自己満で終わることもあるかもしれない。だが、そのような悩みとも戦いつつ、「確実に効く処方箋などはない」という辛い現実を受け止めるしかないのである。そして、そのような戦いの辛さの救済を何に求めるか。宗教に求める人もいるだろう。安易に現状維持に走り、やるべきことを見て見ぬふりする人もいるだろう。だが、KAVのメンバーには是非、「思考」にその救済を求め、自由意思を信じ、主体性を発揮して欲しい。結果、匹夫の勇に終わっても、たかがサークル!

さて、さて、最後の最後に、振り返って再認識したことを。
「大学をどう位置付けるか」と聞かれ、皆はなんと答えるだろうか。仮に、高校生から社会人までという一直線を引いた場合、大学はどこに置くのだろうか。千差万別であろう。
一番シンプルな問題が一番難しい。
同じことがサークルにも言える。
サークルとは何なのだろうか。
サークルには何が求められるのだろうか。
運営側はどこまでの機会を仕事として認識し、提供すべきであろうか。
山に登る機会の提供だけが運営の仕事なのだろうか。
メンバーの交流は各メンバーの自主性に任せればよいのだろうか。
どのようなサークルにしたいかは、個人個人の裁量なのだろうか、それとも、会としての方向性は定めるべきなのだろうか。

サークルとは何か。

考えなくても、絶対何とかなる。楽しいキャンパスライフは確実に過ごせる。いっぱい思い出も作れる。
だが、この問題は、考えれば(意外と)奥が深い問題だと思う。
そして、一体感が深まり、「その時」だけのつながり・楽しさを超越した何かを得られることだと思う。

しかし、この問題はとてつもなく難しい。抽象的すぎるからである。
だが、逃げずに取り組むこと、そしてその結論。
この結論の差異が、その代その代のカラーの違いとなりあらわれるのであろう。