自他を配慮した上でのつぶやきを。

最近、ベンチャービジネスで人間のつぶやくという行為を対象としているものを多く見る。
有名なツイッターなどもそうだが、私の周りでも、個人のつぶやきを分析し、その個人の健康状態、精神状態を図るというビジネスを興そうとしている人もいた。

とある、記事を見て、ぱっと思ったことを言い、それについての連鎖を図る。
なかなか面白いなとは思うが、それに慣れしてしまうと、そこから深く関連性を考えるという行為を怠りやすくなるのではないだろうか。

例えば、最近オバマ米大統領の外交姿勢ー皇室に対する外交儀典ーについて、米国内で波紋が広がっているらしい。(ネット記事は⇒こちら
簡単にいえば、保守派が反対しているという趣旨のものであり、僕は思わず、「何を言っている。サウジアラビアなど諸外国の皇室の国内における位置づけは分からないが、少なくとも日本国内においての天皇の位置づけは”象徴”である。つまり、天皇および皇室に深々とお辞儀をすることにより、国民に対しても、米国は日本国と真摯な態度で外交に望み、両国の発展に貢献したいというメッセージを流すことは可能じゃないか!むしろ、歴史の重圧の中で、深々と儀礼した彼の姿をほめこそすれ、批判するとはどういった了見だ!」とつぶやいてしまった。
しかし、次の瞬間、「日本国内にも天皇に対しての思いは決してひとつではない。むしろ、一つだと困る。そういえば、政治と天皇についての研究があったな〜。」とか「米国においては、天皇は、象徴以外の何かしらの意味をもった存在なのかな。」など、多くの疑問・想いが過った。

僕が、ツイッターでつぶやいたり、mixiでマイボイスなどをやっていたら、思わず上記つぶやきをのせていたであろう。
しかし、本当に興味深いのは、そのつぶやきの次に出てくる部分ではないだろうか。
思ったことをパッとつぶやく。これはこれで面白みがある。
だが、そのつぶやきがなぜ他人は共感できたり、そのつぶやきはどのような経緯で自分自身の口から出たのだろうかなどの、分析も楽しいものである。
また、そのような分析は、相手への配慮を生むものである。

以前、どこかの議員が以下のようなことを述べていた。

 インターネットの発達により、個人個人がブログなどをやるようになり、ある個人がどのように考え、どのような発言をしたのか、などの情報は簡単に伝わるようになった。民衆がそれらの情報を積極的に取り入れていく姿勢を身につけると、それは民主主義の更なる発達ではないだろうか。

その当時は、なるほどな〜と思っていたが、メディアリテラシーなどもかじった今、若干違和感を覚える。
つまり、インターネットを通じて個人が投げかける情報は、あくまで個人が言いたいことである。
HPはそれを閲覧する対象は予め想定でき、またブログなども同様である。
つまり、相手がいるので、それなりに相手のことを考え、配慮した言及もできるであろう。
しかし、「つぶやき」はどうであろう。
本来、人間の思考回路とは、何かしら一次的に思うことがあり、それをあたかもビリヤードのように、思考を思考でもって、最後の結論(ポケット)に落とすのである。
それら重視すべきプロセスの、一部分、しかも最初の部分だけを取り出すシステムは、何かしら人間を変えてしまうであろうと、危惧している。