「情」と「理念」(政治家)

結構前に渡辺靖慶大教授が朝日新聞のオピニオンに載っていたので、取っておいたのだが、そもまま忘れていて、今日たまたま発見した。
8月27日付けの朝日新聞である。(大して忙しくもないのに、放置し過ぎだろう…)
渡辺先生の本や授業にはなぜかいつも共感する部分が多い。
もっと僕に英語力があれば彼のゼミにも参加してみたかった。

さて、今回渡辺先生は政治を文化人類学という体系からアプローチされていた。
僕が文化人類学に興味を持ったのは、青木保氏が「政治、経済は文化を語らずには語れなくなってきている」という趣旨のことを、『異文化理解』でおっしゃっていたからである。

 『人類学は「人」そのものに注目する学問です。(省略)人と人との関係や力の構造を探っていきます。』
文化が人を生み出すのか、人が文化を生み出すのか、については議論の余地はあるが、少なくとも「人」が主人公の一つである以上、政治も「人」の考察、文化の考察を経なければ難しいということは容易に共感できる。

また、渡辺氏は政治家は「理念」や「哲学」を語るだけでは十分ではない、と述べた上で、人間関係や権力関係を中心に動きすぎていると批判している。加えて、政治家に若い世代の心を揺さぶる存在になることを求めている。
そのことを受け、「政治家」について考えてみた。
憲法上は「全国民の代表」であり、政治学上は「選挙に勝つことを仕事としている人」である。政治を「希少な資源の配分」と定義つけるなら、政治家は「当該配分を行う人」とも言える。
「政治家」には色々な顔があるのである。「全国民の代表」であり、「選挙に勝つことを仕事としている」ので、選挙区や後援会の問題が出てくる。また、「配分」を行う以上、相手を誰にするかー選挙区か圧力団体かなどーも問題となる。また、政治家も個人としてのみではなく、一定の組織の中での役割もある。選挙制度の変成により、組織の中での役割がより大切になったことは指摘するまでもない。また、この変成が二大政党制を生みやすくすることも周知の通りである。
しかし、この変成が、政治家の特徴を小さくしているのではないだろうか。
我々、市民は、多種多様である。農家の長男もいれば、三男もいる。未婚の女性もいれば、子供を三人生んでいる既婚もいる。政治は、この多様さを捨象する。政治は人間を限りなく小さくするシステムである。
そして、このセオリーは近年、政治家にも当てはまっているのではないだろうか。
二大政党を生み出しうるのはイデオロギーの対立が分かりやすかった当時においての考察である。
小泉元首相が郵政解散にて圧勝したのは、彼にはこのセオリーが適用されず、政治家としての信念を持っていたからであろう。
政治家には多くの顔があるのは既述の通りである。
その多様の顔に多様なことが要求される。理念や哲学を語り、共感を得る必要もある。時には
それだけではなく、その哲学をもとに政策としてアウトプットする必要もある。選挙区民に説明し、納得してもらう必要もある。選挙区民から要望を聞く必要もある。そのときには、情も必要になるだろう。

多くのことが必要になるが、理念や哲学がなくなれば、「政治」という大きな魔物に食われ、政治家自身小さくなっていくに違いない。
また、今日、「情」はあまり受け付けられなくなっているように思う。
癒着やなれ合いなどという感じが持たれるからであろうが、はやり野暮で冷たく感じる。

選挙制度政治学により、政治を分析することも必要である。しかし、現代日本政治においてはそれは難解であり、また限界があると思う。

文化人類学の面白みを改めて感じた記事であった。