「事実としての政治」と「学問としての政治」

合理的であること、ないし、合理性を追求することが良いか悪いかは抜きにして、学問とは「どのような方法が合理的であり、合目的的であるかを追求するもの」であると、最近感じた。

「希少な資源の配分」を政治と定義するならば、我々は常に政治とかかわっていることになる。
しかし、それはあくまで「事実としての政治」であり、「学問としての政治」ではない。
さて、学問は、合理的方法などを追及するものだと先述したが、どこまでが追及となるのだろうか。

知り合いに、「自分で結論づけることができるような状態になって初めて、学問したと言える」、とおっしゃる方もいた。
学問をする以上、何かしら判明(解明)させるためにするべきものである、という考えにのっとったものであろうか。
しかし、個人的にはそれには懐疑的である。
つまり、学問とは、何かについて疑問を呈することだと思っている。それについて、「こうあるべきだ」という結論を設ける必要は特にないと思う。(特に学部生においては。)
確かに、「推移を見守りたい」などの言葉で〆る新聞をみて、違和感を覚えることはある。
しかしそれは、新聞に事実だけではなく、それに基づいたその社の考えをも求めているからである。

決してペーパーにアウトプットするだけが学問ではない。考えをきっぱりと言えるぐらいの考察を重ねることも立派な学問であろうが、日ごろから気になっていることを友達通しで語ることも立派な学問であろう。
そのような付き合いを通して、話している内容に関する知識、問題点のみではなく、自己また、他者の考えるプロセス、コミュニケーション力なども身につけることができる。

とあるNPOが政治教育享受の機会増進を狙いに、教科書を作成しようとしていると小耳にはさんだ。
しかし、政治教育の機会などは、殊更作るものではないと思う。
中学生は中学生で、高校生は高校生で、大学生は大学生で、そのような友達、仲間を持ち、「良く生きる」ということについて考えるだけで、立派な政治教育だと思う。
それで十分な学問としての政治であろう。
加えて、有権者になればさらに、学問としての政治と事実としての政治が混合され、主体性も増すのであろう。

種々やらねばならないことがある中、昨日また後輩と飲んでしまった自分にそう言い聞かせてみた(笑)