【日常】二つの歯車+話を聞くということ。

先日、KAVのメンバーでお酒を飲んでいた。
面白い話も多々あったが、その中で二点印象に残った話があるので、記しておく。

?二つの歯車
 就職に際し、「歯車だけにはなりたくない」という発言に対し、「どの組織に入っても歯車になってしまうでしょ〜」との返答。両者の“歯車”の意味合いが違うことが面白いと思った。前者の方は、「ある組織のミッションに共感し、入社はしたが、そのミッションに向けて自身が貢献できているとは思えない。また、代替がきくのが嫌だ。」という意味合いでの歯車。後者は、「一つの組織の一員として働く」という意味での歯車。後者はある意味、当然なのである。だが、これは前稿の、歴史ともつながり、非常に興味深い。つまり、もし、歴史があらかじめ決まっており、我々はそれに左右されているだけならば(これこそまさに、「神の救済」ですが。)、我々は間違いなく歴史の歯車の一つである。そして、その歯車を動かしているのは神である。また、ここまでいかないにしろ、たとえば、官僚になりどれだけ国益を充実させようが、それは、地球が限られた資源であるという前提、かつ、ゼロサムの関係であるという前提に立つならば、国益の充実はその他の国の国益の減少と直結し、結局それは歯車の一つと言える。また、我々人間は結局、構造からは逃れられないとするならば、これも歯車であろう。このような観点からすると、どのようにあがいても歯車となってしまうという見解は正しい。
 一方、前者には、「主体的に生きたい」という思いが込められているように思う。ここでは、別に、歯車を回す役になりたいと思っているわけではないだろう。自ら主体的に歯車になろうと思っていれば、それはただの歯車ではない。前者の意見も、機械的に仕事をしたくないという意味の下では非常に納得できる話である。

 こう考えると、歯車という言葉は非常に奥が深い言葉だ・・・。
個人、組織、人生、社会、歴史。
すべてがお互いに”歯車”となりうる。面白い世の中だ。

?話を聞くということ。
 ちょい愚痴っぽくなってしまうが、最近僕の周りで、「話を聞く」という行為を受動的な行為だと勘違いしているやつが多い。実は、僕の所属するキャンパスは「実学」を重視ということで、中には、「座学」を受動的な行為にすぎないと評価している者がいる。
だが、実際は、「話を聞く」ということはもっぱら能動的なことであり、相当エネルギーを使う行為なのである。相手の話を考えながら聴かない行為は「話を聞く」とは決して言えないし、言って欲しくはない!!「相手の話を受けて、その話をどのようにしたら広げることができるか分からない。」「相手の話の論理矛盾などにあまり気付かない」などのセリフをおっしゃている方々は、所詮、相手の話を聞いているなどと言う資格のない方々だと心から思う。

っと、言っても、僕ももっと生産性のある話をできるように心がけていこう!
もっと鍛えよう〜☆

にしても、「一院制・二院制」の議論は面白かったな〜♪