【日常】「歴史の道標」について考える

先日、私の先輩が書かれた卒業論文を読ませていただいた。
「主体性」「歴史から何を学ぶか」という私が常に関心を抱いているキーワードが散々しており、今後の私の研究に良い影響を及ぼすであろう論文であると思った。
 彼が挙げている具体的事例についての言及は省くが、本論のまとめとして、

  連続性から抜け出すにはどうしたら良いのであろうか。ここで重要になるのが、人間の“意思”である。未来を創り出す存在としての意思を、前出の橋元は次のように述べている。「「意思」をもった生命は、自分の秩序を壊そうとする外部の圧力を…変更不可能な過去として受け止める。しかし、その「意思」は外圧に逆らって秩序を維持する自由をもっている。すなわち、この自由こそが未来そのものである。」この“逆らう”ということは「「強い努力」が必要であ」り、この強い努力こそが意思である。そして、この意思とともに生きることこそが「本当に生きること」であると橋元は論じている。したがって、意思により連続性に抗うことで、連続性から自由になることができると言えるのではないだろうか。

 と述べている。
 ここで、「自由意志」と「神による救済」ということを考えてみたい。
つまり、「意思」による連続性からの脱却は可能であろうか、という疑問がよぎるのである。
そもそも我々はある一定の構造の下で生きているのであり、自由意志を有することさえ難しいのではないだろうか。自由意志ないしは自由を考える際に、考慮せねばならないのが、それを制限する「権力」である。先輩が書かれた卒業論文では、歴史における連続性をある種、権力としてとらえている。では、自由意志の考察において、「歴史という権力」と「構造としての権力」は同列に考えてもよいのだろうか。
 フーコーは『監獄の誕生』において、「規律」としての権力の観念を提示した。「規律権力」とは、監視と指導を通じて人々に「正しい」行為の規範をその精神と身体に植え付け、内面化・身体化させる。そして、ついには、自発的に「規律正しい」ふるまいができる人間をつくることを目指すものである。そして、近代の社会を、まさに監視と規律化が社会全体に行き渡った社会と位置づける。彼の権力論においては、権力の主体や客体を特定することではなく、ある社会における人間の行為の規律化、定形化という事実そのもの、そしてそれを具体的に可能にする制度や知識、技術こそが主要な問題だとされる。この問題に対する重大な批判は以下のものである。つまり、「もしフーコーが言うように、主体が特定できない権力によって社会全体が貴かれ規定されているというのなら、こうした権力から自由になること、それどころか、それを外部から批判することさえできなくなりはしないのか。」という批判である。
 上記の、フーコーの規定した権力、及びそれに対する批判が、「歴史」と「構造」の差異を考え、また「「意思」による連続性からの脱却可能性」という問いの応えを導くのに有益であると思われる。つまり、「歴史」とは「歴史的事実から特定の歴史的事実をある人物が選択したものであり、その人物の解釈にすぎない」という点において、主体が特定されているのである。この点が、構造との違いであり、それはすなわち、歴史がもつ権力と構造がもつ権力の違いでもある。構造がもつ権力。これに対しては、「意思」によって脱却可能であると思う。しかし、歴史がもつ権力にかんしてはどうであろうか??先輩が述べるように、歴史から示された連続性から「意思」によって我々は自由になることができるのであろうか。歴史とは構造が重なり合ってできたものでない以上、そう簡単にいかないとは思う。
 また、そもそも歴史の連続性からの脱却は必要なのであろうか。ヨーロッパにおいては、これらの歴史の連続性ー歴史の道標ーは「神の救済」とも考えられたのである。

 以上、簡単な論評であるが、一旦筆をおく。
「歴史をどう見るのか」という議論より「歴史から何を学ぶか」に重点を置き、考察した本論文は、人々が何をもって「生きる」とするか、「良い生き方とは何か」を考える上で、必須のテーマを扱っていると思う。
「境界の時間」をもち、他者(組織、社会、歴史)と自分を相対化させ、主体性について今後も考えていきたいと改めて思った。