【書評】渡辺靖『アメリカン・センター アメリカの国際文化戦略』(岩波書店、2008年)

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今期履修した授業のうちの一つ、「文化政策」。
前期に渡辺先生の授業をとり、彼の授業の進め方や評価の仕方、的確なテストの内容などに惚れ、
今季も履修してみたところ、「文化人類学」という学問への興味を更に注がせる授業となった。
その中でも、特にこの、『アメリカン・センター』との出会いは非常にうれしい。
僕が入学当時からソフトパワーが躍起に叫ばれ、注目されていたが、どうやら僕は勘違いをしていたらしい。
僕は、日本の魅力になりえるものは、すべてソフトパワーとなると思っていた。
だが、(よく考えれば当然のことだが、)何がソフトパワーになりうるかは、それが使われる文脈や、相手国との関係により代わってくる。
つまり、日本の魅力は、パワーの一つの源泉とはなっても、それがそのままソフトパワーとなるわけではないのである。
この本は、ソフトパワーの限界や弱点について考慮できると共に、「言説」についても考えることができる本である。
 また、この本では、「パブリック・ディプロマシー」について、アメリカの具体的事例を歴史に沿って、説明している。「経済も政治も結局文化の一つであるが、文化についての研究がおざなりにされてきた」(青木保『多文化社会』)という言葉がずっとひっかかっていたが、おそらく、言語化せずに、議論のプラットフォームには載せてなかったまでも、歴史上、諸国は、多くの形で、「パブリック・ディプロマシー」を使ってきたことがわかり、改めて今後この分野は研究として活発になってくるだろうと感じた。
 幕末、維新志士が、富国強兵を目指す明治政府を作り、知識人たちはアイデアを西洋に求めた。
当時の知識人たちは、ソフトパワーパブリック・ディプロマシーを、言語化こそしてないにしろ、どのように考えていたのだろうか。富国強兵というのは、決して物質だけの話ではないと思う。福沢諭吉も『文明論の概略』にて、文化の重要性を述べている。当時、知識人たちは、どのような日本文化を魅力的だと捉え、発展させようとしたのか。現在、私は安全・安心を体感できる国こそ、最もすぐれて偉大な国だと考えているが、当時は、「安全・安心」という国家治安についてはどのように考えられていたのだろうか。
当時の「武士」と「近代化」という二つの大きな狭間にいた知識人たちは、何が富国強兵の国造りのためには、有益であると考えたのか、先に述べた二つの概念に対し、どのような思いを馳せていたのか、
残りの学生生活の間に考えてみたい。
 そして、その考察を、今後、国民を幸せにするための国家の政策づくりを考える際の手がかりとしたい。近代と現代では、国民の望みに関する多様性の違いは、いったいどこまで影響があるのであろうか・・・。