【説明会】警察庁+駄文

先日、早稲田大学付近の喫茶店警察庁説明会があった。
2009年初の説明会!!
スピーカーは会計課のアキモトさん。
引率者は林さん。

説明会自体は初心者向けとあってか、会計課自体の説明はなく、
彼自身のキャリアパスにそくし、警察庁の説明がなされた。
参加者からの質問で何点か面白いものがあった。
?国家の治安を守るという仕事はアプローチが違えば、他の省庁も同じではないか。警察庁としてのユニークさはどのようなところで出ているのか。
 ⇒秋元さんは「わかりやすさ」を挙げていた。参加者は、防衛省警察庁と同じくといい、秋元さんも賛成していたが、個人的には、防衛省警察庁は設立意義も違えば、守る対象、除外する対象も違うように思う。また、確かに、農水省などは食というアプローチから国民の安全を守るものであり、そのような意味においては、警察庁と似ているのかもしれない。しかし、それは国家公務員という性格上根底に流れる共通事項であり、やはり差異、特徴はある。内部の統率力や政治的中立性、国民が政府に求める最低限の機能などである。
?職務遂行に際し、何か留意点があるか。
 ⇒秋元さんは「健康第一」と述べられていた。参加者は冗談ととったみたいだが、あながち冗談とは言えない。国民を守るためには、まず自己管理ができていないとだめだと思う。

さてさて、最近危惧している点を一つ。
国家公務員になるに際し、僕の思想は受け入れられるのだろうか・・・・。
正直、今の日本人はもっと主体的に、自己の行動に責任をもって、生きるべきであると思う。
何か問題が出てきたときに、すぐに行政のせいにするのはいかがなものであろうか。
公務員が税金で暮らしているのだから、公務員は国民の言うことをしっかり聞くべきである。
これには賛成である。
しかし、それは決して、国民は自らの義務を放棄してもよいというわけではない。
従来国民の義務とされていたことが、最近は行政に任されているように思う。
国家公務員がどれだけ真剣に働いているのか、ちゃんと理解して欲しい。

人間である以上、合理的に生きようとするのは当然である。
何をもって合理的であるとし、何をもって幸福であるとするのかは人それぞれである。
だが、僕は、経済的分野のみではなく、政治的分野においても合理的に行動することは可能であると思うし、自らを鍛えることが幸福であると思う。
今の日本に希望を見出すことができなくなっているのであろうか。
それがゆえに、外国に活動の場を見出そうとするならば、まだよい。
だが、それがゆえに、何もせず、ただただ日々の暮らしを何の哲学も持たず、生産としての暮らしをしているだけなのだろうか。
何もかも規制だらけで、ロマンも何も持てないという人がいる。
本当にそうであろうか。
ウェーバーが述べるように、「それでもなお!」という精神を持ち、または坂口安吾が述べるように「堕落」すれば良いのではないだろうか。
僕は今、警察庁を目指している。
国の仕事に携わりたいからだ。
国の仕事とは、国民の安全を守ることだ。
警察庁はそれを最もわかりやすい形、そして絶対に必要な形で遂行している。
国民の安全。
結局それは、どれだけ夢を持てるかということではないだろうか。
人々が夢をもち生きていることと、経済的な動向とは必ずしも一致することはないだろうが(多くの影響は見られたとしても、)、市場の規制は国家はなるべくやるべきではないと考える。
(別に、市場を信頼し切ってるわけではないよ・・・・。)
では、警察庁はどのようにして、国民に夢を持たせるべきか。
日本初の「KOBAN制度」の充実である。
つまり、「なにかあっても交番があるから大丈夫!」という安心感。
常に、信頼されるような警察組織の存在。
これこそが、国民を豊かにするものではないだろうか。

以前、後輩と話をしていて、僕が「派遣ギリについてギャーギャーと行政にいうやつの気がわからん。」という趣旨の発言をした。確かにこれだけでは、若干非常識なやつだと思われたかもしれない。
確かに、正社員になれず、仕方なく派遣業務についている人たちがいて、彼らが自分たちの処遇の改善を願い種々活動をしているということには理解を示せる。
しかし、それをなぜ行政に言うのだろうか。
行政は、法律の執行が仕事である。
僕は従来から政治家と官僚の仕事の分担を見直すべきだと考えているが、それの実現のためには、国民の理解が必要になる。
まず、国民の行政に対する理解を改めなおしてほしい。

人間絶対に間違いを起こす。
それに気づき、やり直したいと思ったときに、がんばれば、やり直せるような国家は理想だと思う。
しかし、それにも限界があるのではないだろうか。
その限界の突破は、制度的なものであり、官僚も一躍担えることかもしれない。
まだ実務経験はないが、もし、一躍担えるならば、最大限に努力したい。
弱者を一律救済するのか、それとも、理由を勘案して救済するのか、弱者は切り捨てるのか・・・
これらの判断は政治判断である。
その判断及び決断をするのは政治家であり、現政権が気に入らなければ、国民には選挙という手がある。
国民は、政治家たちが国民を政権選択の道具とする前に、自ら動くべきである。
たとえば、小沢一郎は「政治家は選挙民によって選ばれているのである。その選挙民の信頼を本当に得ていれば、時には選挙民にとって耳が痛いことでも、しっかりと提言できる」と述べている。
政治家が国民に本当に密着した政策を提言できなくなっているのは、選挙民の信頼を得れてないからではないだろうか。
政治家は民主主義を衆愚政治に陥れずに、政治力を養うべきである。

話がそれてきたが、とりあえず、僕がいま僕自身の生涯タスクとして思うことは、
全国民に夢を持ってもらうことである。それが国力を豊かにし、世界を豊かにすると思うからである。
そして、ロマンを抱きつつ、他者にすぐ責任転換することなく、主体的に生きていってほしい。
夢がないところには、寛大さも生まれず、生まれるのは憎悪だけである。
よく、夢を与えることができる職業として、ディズニーランドの職員と芸能人があげる人がいる(笑)
彼らほどじゃないにしろ、官僚も夢を作り与えることは可能である。
むしろ、制度的には一番、貢献できる仕事ではないだろうか。

また、いつか、「規制」や「省益と国益の関係」について考察してみたい。