【輪読】坂口安吾『堕落論・日本文化私観他−二十二編−』(岩波書店、2008年)

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本日、SFCにて輪読を行った。使用図書は、表記のとおり、安吾の『堕落論』『続堕落論』である。
桶谷秀昭『昭和精神史 戦後編』(文春文庫、2003年)も併せ読みとして、考えていたらしいのだが、発表者はあまりこの本にはなじめなかったとのこと。
だが、『昭和精神史 戦後編』を併せ読みとして指定したのは、安吾の『堕落論』『続堕落論』を読むにあたり、戦後の文学の特徴を押さえておきたかったという趣旨だった。

輪読では、?安吾が考えた人間像とは、?長い歴史により作られたバイアスについて、?戦争を起こしたのは人かシステムか、?「プライベート」と「パブリック」について話が及んだ。
発表者はまず、安吾が主張したかったことを『堕落論』から引用した。つまり、「日本国民諸君、私は諸君に日本人、及び日本自体の堕落を叫ぶ。日本及び日本人は堕落しなければならないと叫ぶ」である。そして、この部分を、「人間はあるがままに己の欲求に従って生きていこう、それを権威が堕落と呼ぶなら堕落すべきである。」と解釈する。この解釈で難しいのは、「あるがままに己の欲求に従って生きる」という部分である。己の欲求はどこまでが己の欲求となるのか。これは、まさしく、自由意志は存在するのかという命題と同じであると思う。また、我々が過去に存在したとした各儀式なるものは、現在から見たときのバイアスではないだろうか。
加えて、「権威」という言葉にも留意すべきである。
発表者は権威を公権力と呼んだ。そして、彼曰く公権力とは戦前までに存在していた習慣や慣習であると。公権力を行使する者は、その都合のいいように「レッテル」を選択する。我々はそのレッテルを所要のものとせず、常に、批判精神を持ち生きていく必要がある。
そして、その批判精神を持ち続けるために、人は人間のナマの強さを見つめなおさなければならない。
これこそが、安吾が述べていることでもあると思う。

最後に、発表者は、「堕落論が提示した主張は、戦後が進むにつれて経済的豊かさへの志向と結びついていく部分があったと考える」と述べている。非常に発表者らしい言葉だと思う(笑)
つまり、彼は現代の資本主義に批判的であり、精神的豊かさをはぐくもうとする現代でも、「公権力、権威」に流され、経済的豊かさへの偏重があると述べるのだ。
人が人間のナマの強さを見つめなおすとき、その動きは個人主義の台頭につながることも考えられる。
個人主義全体主義、どちらも一長一短があるように思う。また、80年代以降現代に至るまで、都市化問題をはじめ、社会における人々の結びつきが問題視される時期が続いている。
このような観点からしても、安吾の『堕落論』『続堕落論』が提示する問題意識は、現在まで間違いなく影響を与えているものである。

今回はふれなかったが、いつか、安吾の『日本文化私観』も読んでみたい。
文化論につながる何かを感じることができるかもしれない。