【KAV】創始者七名との飲み会

先日、15日に大森にてKAVを創られたOBの方々と一献交える機会があり、参加した。
参加者は、僕と一年商学部の重松君。
6時開始だったのだが、始まるとともに、「最近の学生はなぜ何も運動をおこさないんだ!?」というOBの声。
確かに、彼らは60年安保に積極的に参加(当時、慶応は体育会は運動に参加できなかった。そのため、山岳部に所属していた数名が離脱し、KAVを創った。)し、その他各運動も起こし、公権力に対し批判精神を強く持っておられる。
そのような方々から見れば、「最近の学生は何を考えているのか分からない。」「現政権に何の問題意識も持っていないのだろうか。」と懸念に思うことは自然なことかもしれない。
しかし、当時と今とで大きく違うことがあると思う。
思うに、当時は快適に生きるための「壁」があり、その「壁」を皆が共有できていたのかもしれない。それゆえに、皆でその壁をぶち壊そうとする動きが今より創られやすくなっていたのかも。
しかし、いわれているように、現在の価値観の多様化により、「壁」が人々によって多種多様なのではないだろうか。
また、現代ではその「壁」が見えなくなっているのではないだろうか。
つまり、ある構造を所与のものと受けいれてしまっており、その構造(「壁」)の中で生きていくことを必然のものとしているのではないだろうか。
構造を「壁」、「システム」などなんと表現しようとも、この構造と人との関係について考えるのは、今後の人生を豊かにするためには、必須のことではないだろうか。

その創始者との飲み会にて、OBの一人よりある言葉を頂きました。
その言葉は、「知性豊かな山登り」で、KAV初代会長・持丸先生がおっしゃっていたことらしいです。
言うまでもなく知性とは人間としての知的な能力(知覚を素として認識をつくりあげる精神的機能)ですが
持丸先生の言われる「知性豊かな山登り」とは次のようなものです。

『「知性豊かな」ということは登山のようなスポーツにとっては非常に大きな意味を持っているのである。
それは同じ登山によって得られるものを大巾に異なるものにしてしまう。
このことは、たとえば二三のヒマラヤの記録を読むだけで理解しうるであろう。
「知性豊かな」人々によって書かれたものは、そこに胸をつかれる人間性がある。
かれらは登山という積極的な行為の中から人間のもつ真実をくみとる能力をもっているのである。
こうした人々のみでひとつの会をつくることが出来れば‥』
というのが先生がKAVに託した「知性ある山登りの会」です。

この言葉を受け、OBから以下の言葉を頂きました。

そういう意味で、山を通して知性を磨くことが
山に登る一つの意義でもあるのだと思うのです。
ついでに別の面から言わせてもらいますと、
山とは、社会生活において人間として必要なモラルとマナーを学ぶ場であり
特に絶対に人に迷惑をかけてはいけないという気構えを学ぶのが基本的原則だと思います。
だから、パーティに迷惑をかけないために、又、遭難しないために、
体力、技術、知識、を充分会得し、自分を鍛えることが求められます。
(こう考えてみると、独立自尊の精神に同じと思いませんか?)

私にとって、山登りとはどのようなものか。
これは大学に入ったころからずっと考えていることです。
時が経つにつれ、山登りの自分自身の中での価値も変わってきてます。
しかし、まだ言語化できるまでいたってません。
いつの日か、山登りについて後輩に語れる日が、また、後輩と語れる日がくることを楽しみに。