「主体性」「有限・永遠」

 僕が一番最初に「主体性」について考えたのは、一年生の後半だったように思う。
二年生以降どのような科目を履修し、卒業までにどのような「自分」に仕上げたら良いのか、考えていたときである。
そのときに、久々に人間の「有限性」を実感した。

現実的に生きている人間は、数々の組織・構築された枠組みの中を同時並行で、有限のスパンで生きている。
僕なら、たとえば、二年間という有限のサークル、四年間という有限のサークル、五年間という有限の学生生活を送っているわけである。
また、その極限は死であろう。
スパンが長いか短いかはそれぞれの枠組みにより違うであろうが、何にせよ「有限」なのは間違いない。
僕自身はまだ死について真摯に考え、真っ向から受け入れるということはないが、いずれ死を恐怖と感じ、受け入れなければいけないときもくるだろう。
(死の恐怖を受け入れるのに、宗教に頼るのはやはり抵抗を覚える。可能ならば理性で脱却したいものだ。)
さて、何にせよ「有限」は受け入れなければならないものである。
(そういえば、レポートの提出締め切りが・・・・。)
それを受け入れるには、やはり「今」を大事にするのがもっとも近道であろう。
(言われれば当たり前のことであるが、「今」という有限の積みかせねが「有限性」をもたらしているのである。)
ということは、「今」をどれだけ積極的に生きることができるのか。
これが、「有限」な人生を克服できるかどうかの一つのキーになる。
そして、これこそが、「主体性」を生み出す最初の原動力になったのである。

しかし、ここで忘れたくないのが、「永遠性」である。
人は確かに有限のスパンの中で生きている。
だが、それは、「永遠」の存在を否定することにはならない。
思想や生き様は後々まで行き続けるであろう。
「今」や「有限性」に執着する一方で、「永遠」というスパンがあることも忘れたくない。

最近は変わってきているだろうが、僕は高校生のころ日本があまり好きではなかった。
単一的な近代の時間(ビジネスにおける時間の流れ方)しか流れておらず、言語も一つだけで、単調すぎるように感じたのである。
(諸外国では日本に比べ、時間の使い方が非常に上手だと思う。勿論、時間の使い方とは、日本で言われるような、効率性を求める意味ではなく、例えば、「夕方」という特殊な時間帯に何を見出すか・どのように有効利用するかということである。)
日本では、「境界の時間」が見つけにくい。
多くの人が同じような道をたどる。
よっぽど、自我を持ち、「人生」に向き合わなければ、埋没してしまい、よく分からないまま時間だけが過ぎるということも払拭できない。
(この改善を教育制度に求めるアプローチもあるが、やはりこれは日本という文化が生み出した特殊性ではなかろうか。)
何にせよ、普段の時間の流れと違った時間の流れを楽しみたければ、自分でそれを作り出し、楽しむしかないのである。
(大学は、その他(中高・会社など)と比べ、幾分その意味で楽しみやすい時間が提供されている場所かもしれない。)

「人生」にどこまで向き合うか、どこまで「理性」を使い理性と戦うか、「永遠」というスパンのなか、有限をどう受け入れるか。
すべて主体性が前提となる話であろう。
与えられた環境を、与えられた環境の中で、それを有効に使い頑張って生きて行きたい。

これらすべてのことは、登山には綺麗に当てはまります。
当然、登山には下界とは違う時間の流れがある。
登山は他人任せには絶対に出来ない。
どんだけ優秀なリーダーや先輩が同行していても、各人最低限ルートの把握や非常食などを持ち、はぐれた場合、先輩に何かあった場合のことを想定しなければいけないからである。
また、「山」は僕たちが生まれたずっと前よりそこにある。
ほぼ永遠の存在ではなかろうか。
その山を僕たちは有限の時間で登る。だけど、仮に登頂出来なくても、また次がある。
登山は多くの意味で、「有限」と「永遠」を意識できる場所であろう。
加えて、山や自然は自我や人間を超越したものである。
今の近代社会において、自我を超越したものを可視できる数少ないものの一つではなかろうか。

あ〜さっさと試験終わらせて、山行きたい〜