「考える」という行為

先ほどの記事で、自分はどうやら、物事を論理的にとらえ、解釈を試みようとする癖があることを再認識した。
何故だろう・・・・。

ま、おそらく、考えるという行為に有効性があるからと、認識しているからであろう。
では、どのような有効性があると認識しているのだろうか・・・??

は〜自分の脳みそがパソコンみたいに階層に分かれており、簡単に階層間を移動できるならもっと人生楽なのに。(だけど、無機質だろう〜な〜><。)

ってなわけで、思考する有効性について、考えてみました!(笑)

まず、その前に、みなさん、「メール」ってどのように捉えてますか?
連絡手段の一つと捉える方も多いであろう。
一方で、情報の提供(=連絡手段)以上のものだと捉えている人もいるであろう。
僕は、後者である。

幸か不幸か、メールはもはや文字としての情報を伝えるだけのものじゃなくなっている。
ビジネスメールでさえ、「相手への配慮」が明記される。
加えて、メールは文字だけで判断されるため、最も誤解を生みやすい、意図的に解釈を相手にゆだねる時を除き、こちらの意図を明示できるような文面じゃないとだめなわけです。
かといって、分かりやすく書こうとぐだぐだ書いていてもだめ。スマートに書かなければいけないわけです。
は〜メールって結構気を使うツールだわ、と以前友人に言ったら、彼は、「ま〜他人からどう見られるかはそんなに気にしなくても良いのじゃない?」と言っていた。

なるほど。
そう捉える方もいるのね。

だけど、「他人からどう見られるかを気にする」≠「相手への配慮をする」ということだと思います。
確かに、相手への配慮も、度が過ぎれば相手へ不快感を与えかねない。
しかし、度が過ぎているかどうかを考えることさえも、相手への配慮の一つだと思う。

相手への配慮。
これは一体何なのであろう。
相手との関係を円滑にするためのもの。
自分の立場を保全するためのもの。
その他、多くのことが挙げられる。

しかし、最も大切なことは、「相手への配慮」を考えるないしは行うことにより、「自分とは何者かを追求できる」ということであろう。
少々突飛な見解だったかもしれないが、自分は決して一人では生きていけない。社会の中で生きているものである。そこには、相手(他者)がいる。つまり、相手への配慮をするということは、相手(他者)のことを考えることであり、それは、その相手から見た相手、すなわち自分のことを見るということになる。

自分とは何か、という追求は他者との交流で追求できるものである。
ここで、他者とは必ずしも人などの有機体である必要はない。相手が国家、社会などの組織でも良いし(僕は、有機体説には立脚していません。)、先人が書いた本でも良いわけである。何かしら、自己の中で「対話」が生まれれば相手はなんでも良い。
他者との交流、他者との対話、これらが自己の探求につながるのである。

つまり、考えるということにより、自己分析ができるのである!
そしてまた、それとの相乗効果もあるが、他者理解にも貢献する。
また、自己の考えていたことで、自分の考えと違った見解などと出会えた時の、喜び。
これは、格別なものである。

精神的な部分さえ理論的に解き明かそうとした本も少なくない。
感情などをはじめとする精神的な部分さえ、論理的なアプローチで行うのは野暮な時もある。
しかし、それが野暮になりうるのは、それらが思想など人間の内側から外に出たときであり、内側にとどめておく限りは、そのような本も模索するヒントにはなる。

なんにせよ、「考える」という行為、またそのフィールドワークである読書、これらの営みは本当に人間を豊かにすると思う。

(抽象的な議論を避ける人も多い。確かに、そのような議論が何を生み出すのかは、答えるに難しい。しかし、抽象論を軽視するのは、具体的な事例に当てはめて考えることを放棄するのと同じくらい問題だと思う。具体的な事例に基づく思考と、抽象論とは両者とも車の車軸のようなものである。)