【書評】西田幾多郎『善の研究』(岩波書店、1950年)

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最近はなかなか本が進んでいない。
その一つの原因に、「善の研究」がもつ独特の難しさがあると思う。
哲学書であるがゆえに、「思索しつつ書かれた本である」ということが非常に伝わる本であり、
事実、後に西田の見解は変容する。

西田の研究が最近諸外国でもクローズアップされ、学問体系としてさらに確立されつつあるが、
今回は『善の研究』が体系の中にもつ意義などについては考察出来なかった。
ただ、日本独自の政治学が生まれたのも明治後半と言われているが、この本が出版されたのは明治44年であり、日本人初の手による最初の哲学書であり、政治学と同様であると感じた。
この本を読むにあたりは、上記のような当時の背景を考えつつ読むことに留意した。

キーワードは、「個人の内面」「社会の事象」である。
「目的」があり、その目的のために「行為」を行う。この行為こそが「善」である。
「人間は何をすべきか」という問いに実践的側面と結びつけ考察したアプローチの先のこたえである。
西田は、善とは「理想の実現、欲求の満足」(192頁)としつつ、善の概念を実在の概念と一致させることで、善を自己の真を知ることと位置づける。それにより、善を為すことは己を知ることであるという人格発展と結びつけられ、善を為す理由は明らかになる。
善を為す理由を個人の人格発展と結びつけたのち、個人の内面に焦点が当てられる。善を目的とする動機は何か。それは私利私欲からくるのではない。西田にとって、個人的意識と社会的意識を重ね合わせていくこと、自己の満足が社会の満足となっていくことに対する喜びが善行への動機なのである。西田の善に対する視野は、人格陶冶から社会の満足にまでつながっているのである。

当時、西田が社会の構築まで射程距離に入れていたかは不明であるが、共通の理念、論理を構築しようと考えていたことは想像がつく。
我々は、その理念を築きあげ、権威に利用されることなく、主体的に生きる義務があると改めて思った。