【輪読】マックス・ウェーバー「官僚制」(恒星社厚生閣、1987年)

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本日、成人式の日、輪読を行った。
ウェーバーの「官僚制」である。
大衆にうんざりしていた最近の僕は、これを読みながら怒りがさらに込み上げてきた(笑)

今回は、「官僚制」と「民主主義」の二つの概念を相対させながら、官僚の意義について考察した。
ウェーバーは官僚制的組織の技術的利点について述べ、複雑化され、また専門化された近代文化においては、官僚制の「専門性」を強く強調する。つまり、「資本主義の官僚制化とともに、専門教育を受けた技術者や店員などが必要となるにつれて、専門教育と専門試験は全世界で行われるにいたった。この(専門教育と専門試験との)発達はなかんずく、専門試験をうけて取得した教育免状の社会的威信によって大いに促される」と述べている。
一方、ウェーバーは「民主主義」「民主化」について以下のように述べている。
行政における封建性的・家産性的特権の金権政治的特権の除去を目指す大衆民主主義は、従来の兼職的名望家行政に代えるに、有給の職業労働をもってしなければならなくなる。しかし、大衆にとって「法と行政とは、有産者にたいして(彼らの)経済的及び社会的な生活チャンスを均衡化する仕事」をするものであり、「『世論』による積極的な行政への働き掛けは、司法および行政の合理的経過を妨げるもの」であるとも述べる。
民主主義は、名望家支配の代わりに、あらゆる社会層から適格者を選択することを意味する。他方では、民主主義は、試験や教育免状によって特権的「カースト」が生まれることを恐れ、それゆえにこれと敢然に戦うのである。

 ウェーバーらしい本だと、今回も改めて思った。
彼特有の「天職」概念や「合理化」の概念がこの本にも登場したのである。今回の輪読でもっとも、理解が難しかったのは、「大衆民主主義」と「近代大衆民主主義」の位置づけである。
この本の出版年は不明であるが、ウェーバーは1864〜1920である。ビスマルクを過去形で記載されていたことを勘案すると、この本は第一次世界大戦(1914〜18)前後に出版された可能性がある。
つまり、この当時は経済と政治の結びつきが強くなり、経済にいた人々が政治に口出しをしている時期ではなかろうか。ウェーバーはこの人々の動きを、大衆民主主義と述べたのではないだろうか。
では、近代民主主義とはいかなるものか。それは、合理的に個人が組み合わさり、国家のことを念頭に置いている大衆のことではないだろうか。そして、合理的であるからこそ、分業が叫ばれ、政治から「専門性のある」官僚を分けたのではないだろうか。
 僕は今回、官僚の意義は官僚(制)の改革をいかにして行うかに見出すことができると述べた。また、国家公務員は現状では専門性を発揮することができず、政治家に対する根回しや説明などロビー運動にも似た活動に多くの時間を割かれているのである。パーキンソンの法則にもみてとれるように、行政は放っておくと勝手に大きくなるものである。しかし、官僚の仕事能率を勘案することなく、総定員法などにより簡単に規制してしまうのはいかがなものか。(現在、国家公務員の人数を減らそうという声があるらしいが、まずは、地方公務員の人数ではないだろうか・・・。)また、以前から思っていたのだが、「官と民の敷居」を下げるための情報公開法や行政評価は官をチェックするためのものではなく、民が積極的に政治参加し、「特権的カートスに対抗する」ためのものである。
今、最も必要なものは、政治家が政治力をつけ、本来の職務を行うために、国民の意識を高めることである。ウェーバーは「官僚が支配的になるのは、経済的及び社会的な差別が少なくとも相対的に平均化される場合である」と述べている。このような場合、他者との差別が目立たなくなり、大衆政治へとなる可能性がある。
現在、支配的である官僚制を考え直すにあたり、大衆政治の改善も合わせて考える必要があると強く思う。